HT あづけしめたまふ
『ともしび』826号
「摂取不捨の利益にあずけしめたまふなり」
(岡崎教区)松林 了
・・・前半省略・・・
任せきりにさせなさる 、
改めて話を『歎異抄』の「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」に戻しますと、これまで私は、念仏を申したぐらいで、無条件に丸々受け入れてもらうということはにわかに信じ難いと感じていました。厳しい修行や学問を修めたわけでもなく、念仏申さんと思いたつ心がおこつただけで、摂取不捨の利益を得られるなんて普通には信じ難いことでしょう。
そのことについて、改めて河田光夫さんが指摘しておられるところを詳しく見てみますと、
だいたい『歎異抄』を訳している人はたいていここを違うふうに訳しているんですよ。つまり「あづからしめたまふなり」というふ風に普通の 人ぼ訳しているようです。 「しめ」というのは、「使役」(させる)の意 味。「たまふ」は「尊敬」。だから「なにをさせなさる」の意味です。
原文は「あづけしめたまふなり」で、「あづけ」はどういうことなのか。現代語でいえば 「あづける」ですね。だから、「あづけさせなさる」と いうわけです。厳密に訳したら、「ゆだねさせなさる」「まかせきりにさせなさる」 こういう意味になるんですね。
もし「利益にあづからしめたまふなり」という文章であったら、「にあづかる」といったら、「~の利益をうける」ということになるわけです。 これだったら「~の利益をうけさせなさる」という意味になるんですね。ここの文章は「あづからしめたまふ」じゃなくて、「あづけしめたま
ふ」ですから、「ゆだねさせなさる」という意味です。ゆだねるのは、誰がゆだねるのかといったら、凡夫がゆだねるわけです。凡夫がす べて、阿弥陀仏にゆだねる。 阿弥陀仏が、「させる」という意味になります。
この原文のほうがやっぱり、凡夫のほうの意志を通して、つまりあづけるという凡夫の意志ですね。それもまた阿弥陀仏がそういう意 志をおこさせるんですけど、一応凡夫の意志を通して、完全に、「まかせきりにさせる」という点が大変に強調された文章になります。 だ から、ここで第一章で強調しているのは、もう往生をとげるんだと信じて、念仏もうそうと思いたったそのときから、摂取不捨の利益にあ づかるのだ、というわけです。(河田光夫(一九三八~一九九八)著『歎異 抄をよむ』(明石書店、一九九八年)三九~四〇頁)
河田さんの指摘のように、「あずけしめたまふ」の現代語訳として、「あずけ」が任せきるということで、「しめ」がさせるという使役の意味で、 「たまふ」を尊敬の意味で読みますと、任せきることがなかなかできない衆生を、「任せきりにさせなさる」という仏さまのはたらきを表すことになります。自力の執着心があり任せきることができないこの私を任せきりにさせなさるという、変な表現ですが、意味はものすごくよく分かる現代語訳だと思います。河田さんは神戸大学で国文学を専攻された方で、文法的にも、とても厳密に読んでおられます。この「任せきりにさせなさる」という現代訳語を読んだとき、私は目からうろこが落ちたかのように思いました。
「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」とは、この私がおこすのですが、そのおこすことすらも仏さまの力だという意味を示すために、この「すなわち」を間に挟み、その後に摂取不捨の利益に任せきりにさせなさるが続く。さきほど言いましたように、今、私が念仏申しているのは何かに納得して念仏申しているのではない。念仏申す身にさせていただき、そして、摂取不捨の利益に任せきりにしていただいた。源信和讃の言葉でいうと、仏さまはものうきことなく、この私に関わってくださって、この私を任せきりにさせてくださったのです。
「弥陀の誓願不思議」
任せきりにさせなさるという、仏さまの心には、大悲無倦、無縁の大悲という意味があるように思います。このことを河田さんは次のようにおっしゃいます。
いま阿弥陀仏は西方の浄土にいて、そこから人間の力では想像できないような力をもって、こちらに働きかけてきてくれてる。たえず阿 弥陀仏のご利益に、我が身をゆだねて生きていけるんだと。そういう喜びの気持ちが、ここにはよく表れていると思います。
(前掲、四〇頁)
これだけ頑(かたく)なな、手間のかかる私を摂取不捨の利益に任せきりにしてくださった喜びが表されているのです。人間の力では想像できないような力をもって、こちらにはたらきかけている。この想像できないということが、第一章の最初にある「弥陀の誓願不思議」の「不思議」と重なっています。
不思議という言葉は、現代では奇妙という意味合いで使われますね。マジックショーをどで、訳が分からないときに不思議だと言ったりしますが、種明かしされると「なんだ、そういうことか」ということになります。
「弥陀の誓願不思諌」の不思議は、種明かしされようが、何をされようが、凡夫の考えでは及ばない、つまり、どれほど丁寧に説明されてもわれわれわ考えでは及ばないという意味です。藤場俊基さんの本を読んでいましたら、不可思議について「思議すべからず」は「よくわか庵ない」ではなく、「わかろうとしてはいけない」
「考えてわかろうとしてはいけない」という意味なのです」(『親鸞に聞く大無量寿経の意Ⅰ』サンガ伝道叢書、二〇一九年、五一頁)とまで述べておられました。
この不思議は、『正信偈』のはじめにも「南無不可思議光」(聖典二〇四頁)とあります。この不可思議光というのは、不可思議な光という意味に違いないのですが、不可思議だということを分からせていただく光だということです。南無不可思議光というとき、不思議な光で助けられるというなことではなく、私どもの考えでは思議できないというこどを明らかにしてくださる智慧のはたらきを不可思議光と言います。私の考えをどれだけ尽くしても、考えが及ばないということを知らしめる智慧のはたらき、あるいはそういうことを分からせていただいた喜びの気持ちだということをおっしゃるわけです。この私をして摂取不捨の利益に任せきりにさせてくだきった喜びが表されているように思います。
おわりに
私にはいまだ素直に念仏申せない心がありますが、今こうして曲がりなりにでも念仏申す身になつていることについては、自分でも説明ができません。 「教巻」の結びに、「時機純熟の真教」(聖典一五五頁)という言葉があります。これほど手間のかかる私が、さまざまな人や教えの言葉に出遇わせていただいて念仏申す身にさせていただいたのは、時が熟したとしか言いようがあり㌻せん。柿も青い実が熟して甘くなるのに時間がかかりますでしょ。味噌や、お酒なども発
酵するまでに時間がかかります。力ずくであっという間というわけにはいきません。時が熟すというかたちで任せきりにさせてくださったのです。 ㌦
今回、このことをお話しするしかないなと思いながらも、言葉ではうまく表現できません。仏さまのはたらきをいただいたということは、そういうことだと思います。私におこつた心ですが、私がおこした心ではないということです。もう七十年にもなろうとする私の人生を振り返ると、逃げるものを捉えるようにして摂取不捨の利益に任せきりにさせてくださっているということを実感しております。
これは決して「出遇わせていただいた」という過去形では言えないことであり、出遇い続けさせていただいているということにおいて、「摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」という言葉を味わっています。このことを、河田さんの『歎異抄』の現代語訳を読んで目からうろこが落ちて、受け取っております。他の現代語訳が間違っているということではなくて、私において、このように現代語訳をしていただかないとうなずけないものに出遇わせていただき、そのことをお話しするご縁をいただきました。つたない話を最後までお聞きいただきましてありがとうございました。
(まつばやし さとる)
二〇二一年二月七日 東本願寺日曜講演抄録
(出典 『ともしび』826号
「摂取不捨の利益にあずけしめたまふなり」
(岡崎教区)松林 了)
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