HT 阿弥陀如来は今いずこに
                                    上杉思朗
ある中年男子
「夕食のとき末子中2男が問うた。『父ちゃん、仏さんてほんとうにあるんか?』『そりゃあるんさ』と答えたら『どこにおらっしゃるんじゃ』という。『そりゃお前、お仏壇の中に…』と言おうとしたが、もぞもぞする。高3の長男が『父ちゃん、誤魔化すなよ』とやじる。女房は笑いこけるし、お婆ぁは心配そうに俺を眺めた・・・いやはや思いもかけぬ冷や汗をかいた。
 ご院主さん、あんなときどう答えたらいいのかね。」
 そこで答えた。
普通人が思うのは次の3つでしょう。
 ⑴お仏壇の中にいらっしゃる
 ⑵お浄土(極楽)にいらっしゃる
 ⑶人間の心の中にいらっしゃる
どれも当たるところはあるが、満点ではない。
 ⑴「あれは紙に画いたもんやないか」といわ
   れたらどう答える? 
 ⑵「その証拠があるか」と聞かれたら?
 ⑶「これも、証拠があるか」と云われす。
仏さんと云っても、浄土真宗では阿弥陀如来ですから、こう答えてやるのが百点満点です。
 ○「仏さんは私にもお前にもちゃんと付いていらっしゃるよ」と。
また「ついていらっしゃる証拠は?」と問われたら、
 ○「南無阿弥陀仏のお六字がついていてくださる。耳に、口に南無阿弥陀仏の声が聞こえたり、こぼれるたりしていること。これは絶対嘘とい   えない事実です。人間世界において、この事実以外に弥陀如来なる仏を証明するものは何もありません。」
 ○「南無阿弥陀仏は身についてくださる。心についたのでは人間の心は当てにならぬ。いつ不用と投げだすか分からぬ。身についた南無阿   弥陀仏は容易に捨てられない。
 ○親鸞聖人は、我々が南無阿弥陀仏と称えることを「大行」と仰有る。口に称えれば必ず耳に聞こえる。聞こえる六字の声は名号であって、   これが「弥陀の名号となえつつ」という、人間一人びとりの心のあり様を超えて、人間の上に現れている仏のはたらきの、唯一つの何より   確かな事実である。この事実を成り立たせるものこそ、法蔵菩薩の兆載永劫の御修行といわれる「大行」であったといただくのであります。
○南無阿弥陀仏のお六字の呼び方名前も、お六字をたしなむ人との関わりあいで変わる。
  口にかけられる時  ・・・ 称名
  耳に聞こえる時    ・・・ 名号
  心との関わり会いの時・・・念仏

 となる。
  身に付いた南無阿弥陀仏と、われら人間の心のありようが、お六字の上に示された義(いわれ)どおりに一つになること、それが念仏の境 地である。念仏の境地が開けば、往生成仏(念仏往生・念仏成仏)の義は、何より確かなわが人生の内容として実感される。問題は、わが心 が念仏になってるかどうかの一点にきわまるのである。)
○「弥陀の名号となえつつ 信心まことにうる   人は 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり」とのご和讃のとおり。
   「憶念の心つねにして」が念仏の心境。
口に耳についてまわる称名・名号のお六字が、「信心まことにうる」という心によって、「憶念の心つねにして」の念仏になってしまうのです。
 この聖人のご指南によって、いやおうなく思い知らされることは、
 信心なければ念仏なし
 念仏の人は信心の人

という厳粛な事実であります。

(上杉思朗『阿弥陀如来は今いずこに』
  平成六年七月十五日 聖徳寺発行)
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