HT 摂取不捨の真言…言葉の重み

『一蓮院談合録より』 (4)
(太字の文が一蓮院秀存師の言葉です。カ
ッコ内は私の所感)
      *
 如来様が、助けてやるきっと助けてやる、案じるな、心配す
るなと仰せらるるに、いろいろな小言ばかりを云うておる。そ
んなことが如来様の御機に契うであろうか。

(現今は、情報化社会といわれ、新聞雑誌はもとよりテレビや
ネットで、言葉が洪水のように飛び交っている。そういう状況の
中では、言葉の重みは非常に軽くなってしまう。また人間関係
は言葉によってコミュニケーションをとっているが、自分自身の
言葉ですらあやふやが多
いので、必然的に他者の言葉もそれほど真実性があるとは思っ
ていない。だから他者からの言葉をそれほど真剣には聴かない。
それが日常茶飯揮比なっている。
 そういうように言葉が氾濫し、言葉が軽く取り扱われる中では、
阿弥陀仏の本願の言葉を聞かされても、それを非常に軽く受け
とつてしまう。しかるに、覚りの智慧から説かれた仏様の本願の
言葉を聖人は 「誠なるかな、摂取不捨の真言」 と感謝し讃歎
されている。(汝をきっと助ける、必ず助ける、心配するな) とい
う摂取不捨の仰せこそ誠であり、偽りのない真実の言葉であると
仰せられるのである。南無阿弥陀仏の御名はこのような大悲の
喚び声であるにもかかわらず、この言葉に順わず、自分のさまざ
まな考えを差しはさんでいる。阿弥陀仏の言葉よりも自分の思い
を大事にしているのである。
だからいつまでも如来様のお心にかなわないのである。
 私たちの心の奥の叫びは(助けて下さい)ではなかろうか。なぜ
なら私たちは死の闇に取り囲まれ、煩悩の心にがんじがらめになっ
ているからである。このいのちの底からの叫びをすで
に阿弥陀仏は知り尽くして下さっていて、法蔵菩薩となり願を発し修
行して南無阿弥陀仏になって、(お前を引き受けて浄土に連れて行く。
安心してくれよ)と喚びづめに喚んで下さっているのである。(助けて
下さい)の根源的欲求と(助
ける)の大悲のお心は、ああじゃこうじゃの小言をいわなかったら、おの
ずからぴったりと結び付くのである。即座に話が決まるのである)

(出典 「信心夜話」土井紀明『聞名仏教』第6号 2011/3/1)
【キーワード】言葉の軽重 如来の真言の重さ 日常の言葉の軽薄さ
         機教相応

【参考】最後の如来と衆生の「ぴったり結びつき」で思いあわされるのは、
「慶喜一念相応後」の「相応」である。衆生の「助かりたい」と如来の「助
けたい」がびったりと噛み合うことが「相応」だと自解している。ちょうど自
在鉤に鍋のつるがかかったように、サーカスで上から下がってきている
男の下げた手に、下の男の手が組み合ったように、ピタリと組み合った
状態が相応であろうか。(宏壽愚見)