HG すべてを知るもの

すべてを知るものは、すべてをゆるす

(ゆるす=恕=人さまを自分の心と同じように見る)
(信は如来にある。如来の本願は衆生を信じて
 いるから。 
(すべてを知る如来は、凡夫のすべてをゆるす)

(出典 ☆鈴木大拙師常用のフランスの諺)
【キーワード】 全知 仏智 照覧 摂取

★この諺の元はフランス(キリスト教国)だか ら、
「全知全能の神が、われわれの罪をゆるさ れた、
だから神を信仰する」というニュアン スがあるが、
鈴木師はそれを仏教的に援用さ
 れたものと思われる。
  浄土真宗でいえば
     「十方微塵世界の
      念仏の衆生をみそなはし
      摂取してすてざれば
      阿弥陀となづけたてまつる」
であろう。

☆美穂子さんとの対話(2004年1月)
 せんだって、電話で相変わらずの楽しい対話を
させていただいた。
《大拙の涙は自然のなみだ》
たとえば最初に美穂子さんが大拙に会ったとき、
大拙は美穂子さんの手を見せて、これは仏の手
だと言ったという話がある。このとき大拙の目に
涙が光っていたと言うことであるが、これが何を
意味するのかと言うことが、自ずからと慈悲の話
に結びついたわけである。
 これにからんだはなしとして、志村さんが書いて
いるもので、未だ彼が20歳代のころ、大拙は道元
とか親鸞に較べると見劣りすると言う話を大拙に
いったくだりがある。大変ぶしつけな、、、と言う風
に後で書いていたが、このとき大拙は別に若い
志村さんに対してどうこう言うというふうでなく、い
わば自問自答のように、そうだ、私には誠が足り
ないのだと言ったということである。志村さんはそ
のときの光景に圧倒された(自分がなくなったよう
な気がしたと)と言う風に書いている。
 この辺の話は結局、大拙がいつもいわば慈悲の
心を基盤に、まさに、あるがままの働きによって行
動していたと言うことを物語っているとみえるわけで
ある。また涙でしか本当のところは表現できない、
と大拙がどこかで書いていたのを覚えている。(
拙の好んでいた、フランスのことわざ、すべてを知る
ものはすべてを許す、、、につながる

 また、自問自答とか、あるがまま、自ずからの話は、
否定も肯定もない=>これは(いわば涙でしか)表現
できないというようなことにつながる。 (ちなみに、
これについて最近美穂子さんの書いたエッセイがあ
るとのこと)
 大拙の自問自答-つまりおのずからを確認したプ
ロセスは、(つまり第一系列との連絡の意味は)私も
以前より感じていたのだが、彼の生き方、話の仕方
、本の書き方などにいわばひとりごとというような感じ
であらわれていたようである。(基盤に乗っていること
を確認して、おのずから、という感じがそこ、ここに展
開していたようにみえるわけである。) 
 何はどうあれ、大拙は、涙を流したり、煩悩の中にい
たり、子供のようなあそび心を見せたり、空から雨の降
るように、あるいは春、たけのこが地面から出てくるよ
うにかんがえてみたり(へリゲルの弓と禅の序文にあ
る表現)講演でどんな話題でも禅の立場(つまり立場
のない立場)から自由にこなしたり、まさに自在であり、
いってみれば慈悲、おのずからの化身というような生
きざまだったような気がするのである。
http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/mihokosan.html

洲崎清