HG 「愚かな私」の聞思

    今月のことば
 「私は死ぬまで煩悩具足の凡夫です」
   清胤徹昭
 凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみち
みちて、欲もおほくひまなくして、臨終の一念
にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと…。
                  (『註釈版聖典』)
 私たちの毎日が、この連続でしかないという
ことに気づかれたのが親鸞聖人です。浄土真
宗のさとりは、私の心を清らかに磨いていくこ
とで得られるのではありません。煩悩具足の
凡夫であることに気づき、この私が如来さまの
おはたらきによって、仏と成らせていただくこ
とが、浄土真宗の教えです。・・・
 愚かな私。このことが本当に知られたならば、
変わっていかざるを得なくなるはずです。「愚
かな私」にとどまっているかぎり、本当に愚か
さがわかっていないのです。本当にわかった
ならばその愚かな私がどのように生きていっ
たらいいのか。そのことを聞思する。親鸞聖
人はその聞思をずっと続けられたのです。だ
からこそ「臨終の一念まで」ということばにな
っていったのだと思います。煩悩の身である
ことを深く見つめ続けてこられた結果が、先
のことばです。
 そして今親鸞聖人のおことばをいただいて
いる私たちは、先に結果を知ることになりま
した。しかしいくら結果を覚えても、それは私
の仏道にはなりません。「愚かな私」である
ことにいたみを感じながら、聞思する。それが
私にとっての仏道を歩むすがたではないか
と思うのです。

(『大乗』(平成14年6月号20頁
 清胤徹昭(『生きるよろこび』本願寺出版社刊
 より)
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