HG 如来の誕生

「如来は吾人の罪悪意識の中に誕生したまう」
                西谷順誓
      (明治17―昭和21。龍谷大学教授)

<文脈>
 大正十二年頃、龍谷大学の野々村直太郎教授が『浄土教批判』(近代科学の到来によって「前近代的」な浄土観・阿弥陀仏観は、もはや封建主義の残物に過ぎないとする)を発表し、宗教界に大波紋を投じた。
 それを読んだ田舎の老僧(七十歳)が興奮して来訪、「野々村氏の書物を読んで、阿弥陀さんをどこかへ失って捜しに来た」という。まあゆっくり研究しましょうということで一泊して貰うが、夜中も落ち着かない様子。翌朝、本堂にお詣りしたとき「如来は吾人の罪悪意識の中に誕生したまう」と黒板に書いておき、正信偈のお勤めをする。老僧も唱和したが、自分の頭をパチパチ叩く。(この人はよく分かると感心、感心と頭を叩く癖がある。)
 しかし朝食のときは世間話ばかり。そして「さよなら」という。「それでは、阿弥陀如来を発見しよう、研究しようという約束が果たせない」と言えば、眼からポロポロ涙を流し「吾人の罪悪意識の中に誕生したまう」の一言でわかりましたと泣く。そうして別れて帰られた。(取意)
 「この簡単な言葉によって、幾人かが如来ということに気づいてもらことは事実であります。
如来を求めている人が十万億土の遠い所で、自分以外に求める。如来は、私どもの心にある。
われわれの罪悪意識の中に誕生したまう、すなわち、本能の流れ欲望の中を住家として誕生してくださるお方が如来である。言い換えれば私どもの罪悪意識を起させる。もうひとつ言い換えれば、私どもは罪の深い凡夫だ、私どもは罪悪に充ち満ちた奴だということを、私どもが真実に感ずる、そのこと自身が如来の力である。それが罪悪意識の中に誕生することである。
 私どもがほかの学問勉強の努力によっては、自分の罪悪を理解することはできぬ。どれだけ哲学を研究しても、われわれの罪の深いことを知ることはできない。科学をやっても罪の深いことはわからぬ。智慧分別でも自己ということを、自覚することができぬ。たまたま私どもが、
罪悪の凡夫ということを自覚するということは、特種なる性質、特種なる考え、特種なる心の働き、それは何かというと、われわれ一切凡夫の心に宿ってくださる仏のみ心が働き、初めて罪悪の凡夫ということに気づく。言い換えれば、われわれが罪人であると自覚する。それは自己の力でなくして、如来の賜である。仏のお力であると信ずる。これが如来が罪悪の意識の中に誕生したむことであります。(141-142頁)

(出典 西谷順誓「如来と人との交渉」
   『浄土真宗名法話講話選集』13巻、
    140頁))
【キーワード】 浄土教 科学 物語 
野々村直太郎 如来 人間の罪悪 苦諦 

<味わい>
 本来、仏教は四諦から始まる。「苦」諦がまず第一。(如来を疑っても、わが「苦」を疑うことはできない。この事実から仏教はスタートする。)
如来・浄土(浄土教)は、衆生の苦をすくい、「滅」にいたらしめんとして興った。(わが「苦」が自覚されるかぎり、「滅」への願いは必然的に起こる。)法蔵の本願の「物語」の趣旨も同じ。(「物語」で表わされている心を読むべき。墨絵の竹は黒色だが、そこに「青さ」を読むがごとし。)
 故に如来はまず吾人の「苦」の中に入られる。その智慧光・慈光によって「苦」の元が「集」(煩悩)であったと「諦」が進んだとき「自己の罪悪観」となる。 その罪悪深重の吾人を「滅」に至らしめんという「道」こそ本願名号の力である。
 「如来とは吾人の罪悪意識の中に誕生したま  い、罪悪を涅槃に転じたもうはたらきであ  る」
といただかれよう。(宏壽)