HG 苦難に耐えられる

意味さえあれば、人間はおよそどのような
苦しみにも耐えられる。

(元はニーチェの言葉。フランクルが引用。)
【キーワード】 苦しむ意味 苦に耐える力
   宗教

【参考】
意味さえあれば・・・

 4月24日の産経新聞にJR福知山線事故の連載記事が掲載されていました。1つの点が目を引きました。それは、事故の真相解明が遅れているので、犠牲者が「なぜ死ななければならなかったのか?」についての説明の欠如が、遺族を苦しめていることです。いうまでもなく、人間にとって本当の苦しみとは、苦しみそのものよりも、その苦しみに何の意味も見出せないことです。

ニーチェによれば、

「苦しみそのものが問題であったのではない。むしろ『何のために苦しむか』という問いの叫びに対する答えの欠如していたことが問題であった。人間は苦しみそのものを拒否したりしない。彼はそれを欲する、彼はそれを求めさえもする。もしその意義が、苦しみの目的が示されるとすればだ。これまで人類の上に蔓延していた呪詛は、苦しみの無意義ということであって、苦しみそのものではなかった」。

 たしかに、人間は、苦しみを避けたりはしません。苦しみに値する意味があれば・・・。宗教がなくならないのは、苦しみの意味を説明してくれるからでしょう。不幸が降りかかった人がまず知りたいのは、「なぜ」こういう不幸が、他でもない「私」に降りかかったのかということです。苦しみの意味を知りたいと願うのは、人間にとって一番辛いのが、不幸に何の理由も、意味も、原因も見出せないことですから。そこで誰かが、「あなた方の先祖供養の仕方が悪いから、神さまがご立腹なのじゃ」とご神託を告げると、「なるほど」と腑に落ちるわけです。必ずしも理屈がもっともだから納得するのではなくて、とにかく理屈が与えられているから納得するのです。無意味な苦しみに、人間は耐えられません。

 もちろん、不幸の意味を知らされても、それで遺族の心の傷が癒されるわけではありません。でも、心に一区切りつける助けにはなるでしょう。ひとまず決着をつける弾みになるかもしれません。こういう悲惨な事故は、他人事ではなく、いつか私たち自身にも降りかかってくるかもしれません。そういう時、私たちは、不幸の意味を見つけることができるでしょうか? う~ん、ちょっと自信ないなぁ・・・。
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